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公共 NEWS

「トロッコ問題」 〜 思考実験を活用した公共の授業〜

どちらが正義なのか、目的達成のために何を犠牲にするべきなのか―。
究極の状況を設定することで個人や社会の判断基準を問い直す思考実験は、さまざまな社会問題を考える手がかりとしても有効です。今回は、公民科教員の傍らリベラルアーツを実践する探究型学習塾「知窓学舎」の運営にも携わる前田圭介先生に、有名な思考実験「トロッコ問題」の授業での扱い方について伺いました。

学習指導要領における思考実験の位置付け

高校の新学習指導要領がスタートして3年目に入り、今年度から大学入学共通テストでも新科目「公共」の試験が始まります。

公共では、内容A「公共の扉」の「(3)公共的な空間における基本的原理」で幸福・正義・公正などに着目した課題探究を行うこととなっています。また、この単元を扱う際には「公共的な空間における基本的原理について、思考実験など概念的な枠組みを用いて考察する活動を通して、個人と社会との関わりにおいて多面的・多角的に考察し、表現すること」と学習指導要領にあります。これを受けて、公共の教科書にもトロッコ問題や囚人のジレンマなどさまざまな思考実験が掲載されるようになりましたが、実際に思考実験を授業でどう活用すればよいのか悩まれている現場の先生も多いのではないでしょうか。

本稿では、トロッコ問題という有名な思考実験を題材に、公共の授業で思考実験を活用する方法とその可能性について考えていきたいと思います。
※囚人のジレンマの活用法は、「核を持つと戦争のリスクが高まる?!ゲームで学ぶ安全保障の授業」の記事もご覧ください。

トロッコ問題の考え方

最初に、トロッコ問題の設定を確認しましょう。

あなたは、線路の切り替えレバーのポイントに立っています。すると、制御できないトロッコが向こうからやってきました。そのトロッコが進む先には5人の作業員がいて、このままだと5人を轢き殺してしまうことは明白です。進行方向を変えるレバーの前にはあなたしかいません。もしあなたがレバーを引けば線路が切り替わり、5人の命を救えます。ですが、切り替えた先の線路にも別の作業員が1人います。レバーを引けば、その1人は確実に犠牲になってしまいます。

あなたがレバーを引けば、5人の命が救われますが、本来死ぬことのなかった1人の命が失われてしまいます。逆に、あなたがレバーを引かなければ、5人の命は失われますが、その1人の命は救われます。さて、あなたはレバーを引きますか? それとも引きませんか?

この思考実験は今でこそ有名ですが、もともとはイギリスの哲学者フィリッパ・フットが妊娠中絶の正当性を示すために1967年に提起したものです。キリスト教社会では人工妊娠中絶が禁止されていましたが、非合法な中絶を行って命を落とす女性は一定数いました。また、中絶しなければ絶命してしまうような母体が危険な状態でも中絶を認めなかったため、結果的に命を落とす母親も少なくありませんでした。そのため、フットは「母体に危険がある場合に中絶は認められるべきか?」と問いかけ、トロッコ問題を持ち出すことで人工妊娠中絶の必要性を訴えたのです。

レバーを引けば子ども1人の命が失われてしまうが、レバーを引かなければこの先に子どもを何人も産むかもしれない女性の命が失われてしまう。こうした問題の構造を簡潔に示すためにトロッコ問題が考案されたのです。

この思考実験は「モラルジレンマに陥った際に何を優先すべきか」を考えるためのものですが、主に2つのアプローチから考察できます。一つは功利主義、もう一つは義務論です。

功利主義はイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが唱えたもので、社会全体の幸福度の合計が最大化される行為を望ましいものとする考え方です。トロッコ問題の場合、レバーを切り替えて1人の命を奪うことで5人の命が救われるのだから、4人分の幸福が失われずにすむと解釈できます。そのため、功利主義的に考えれば、トロッコ問題については「レバーを引くべき」という立場になります。

一方、義務論はドイツの哲学者であるエマニュエル・カントが唱えたもので、他者を目的達成のための手段としてのみ用いてはならないという考え方です。結果的により多くの命が救われるとしても、そのための手段として本来は死ぬはずのない人を殺すことになるのであれば、それは道徳的な行為といえるのでしょうか? 義務論的に考えれば、トロッコ問題については「レバーを引かないべき」という立場になります。

トロッコ問題に対する立場は何を重視するかによって決まってきます。行為の帰結に着目するのか、それとも意図や動機に着目するのかによって異なる道徳判断が示されるのです。

トロッコ問題の活用法

ここまでの内容を授業内で紹介するだけでは、「難しいね」「いろんな考えがあるよね」と受け止められて終わってしまいます。そこで、トロッコ問題をさらに活用するための方法を考えてみましょう。本稿では、2パターンの展開を紹介します。

1. 状況をアレンジしてみる
トロッコ問題のような思考実験は、自分で新たに条件を付け加えることによって価値判断が変わることがあります。

この思考実験のアレンジで有名なのが、アメリカの哲学者ジュディス・トムソンによるものです。トムソンはフットの設定をもとに、歩道橋の太った男という新たな状況を考案しました。制御できないトロッコと5人の設定は同じですが、線路は分岐しておらず、トロッコを見下ろす太った男が歩道橋にいるという設定が加わります。

トロッコを止めるには、太った男を歩道橋から突き落とすしかありません。さて、5人を救うために太った男を突き落として犠牲にするべきでしょうか? 功利主義的に考えれば同様に「男を突き落とすべき」という結論になりますが、この状況では自分の手によって太った男の命を意図的に奪うという側面が強くなるため、突き落とすことをためらう人が多くなるかもしれません。

ほかにも、「線路がループしていたら?」「1人が赤ちゃんだったら?」「5人が有名人だったら?」などさまざまな設定を考えることができます。そこで、年齢や職業の属性などを付け加えたり他の条件を設定したりするワークに授業内で取り組んでみるとよいでしょう。

判断の難しい状況を想定することで、自分の価値判断の根拠に気付くことが思考実験の重要な目的の一つですが、その判断の根拠は状況次第で揺らぐ可能性があるという気付きも重要です。こうしたワークを経て自分が大切にしている価値を見つめ直すことは、公共の授業の目標の一つだと思います。

2. 具体的な状況や現代社会の課題に引きつける
トロッコ問題自体はあくまでも思考実験でしかないので、そこから具体的な状況や現代社会の課題をイメージできるように授業を展開していくことが重要です(トロッコ問題が人工妊娠中絶を肯定するための思考実験であったことを思い出してください)。社会や世界との繋がりを意識した授業展開にすることで、トロッコ問題について考える意義をより実感してもらいやすくなります。

例えば、飲茶さんの『正義の教室』は、「校内のいじめ事件を受けて、学校に監視ロボットを24時間設置することが決まった。監視ロボットは24時間起動しており、映像の様子がリアルタイムでネット配信されている。こうした状況に対し、生徒会長としてどのようなスピーチをするか?」という筋書きで展開されています。この筋書きを活用して、授業内で立場ごとに原稿を作成し、生徒会長スピーチを実演してみるのも面白いでしょう。

さらに、「公共の扉」のあとの授業展開を考えつつ、実際の社会課題との繋がりを意識させることも有意義です。原発の立地をめぐる問題、公共財の配分の問題、グローバルな格差の問題、「正しい戦争」をめぐる問題、などさまざまな社会課題がトロッコ問題と同様のジレンマを抱えていることが少し調べれば分かります。そこで、「トロッコ問題と同じような状況が現実に問題となっている事例は?」と問いかけて生徒に調べさせると、社会正義をめぐる多様なテーマが見つかると思います。そのうえで教科書後半の政治経済パートに繋げていくと、公共の授業らしい横断的な展開が可能になります。

その他、新型コロナやAIの話題に繋げていくこともできるでしょう。コロナ禍でのトリアージをめぐる問題はまさにトロッコ問題の最たる例ですし、外出規制の是非やワクチン接種をめぐる問題も同じ枠組みで考察できます(コロナ禍での社会正義をめぐる課題については、児玉聡『COVID-19の倫理学』に詳しい)。AIに関しても、「自動運転車の走行中に人を轢いてしまいそうな状況で、AIにどのような判断や意思決定を行わせるべきか」という問題はトロッコ問題と同様のジレンマを孕んでいます。

このように、教科書上のトピックや時事的な話題を上手に組み合わせて活用することで、トロッコ問題から出発してさまざまな社会問題を眼差すことができるようになるのです。

思考実験の可能性を探る

ここまで、トロッコ問題という思考実験を取り上げて授業での活用アイデアを紹介してきました。思考実験というと単なる机上の空論や知的遊戯のような気がしてしまいますが、使い方次第では人間のあり方や現代社会の課題、世界の望ましい姿について考えるための有力な武器になり得るのです。改めて、公共の授業で思考実験を取り上げる意義を整理しておきましょう。

1. 自分が大切にしている価値を見つめ直す
思考実験とは、自分の思考プロセスや価値観の揺らぎを実感するためのツールです。特にトロッコ問題のような社会正義をめぐる思考実験では、自分の価値判断に迷いが生じるものです。そうした迷いや揺らぎを自覚し、自分が大切にしている価値を見つめ直すことは、社会について考えるための第一歩といえます。

2. 他者との価値観の違いに気付き、他者と共生するためのヒントを見つける
授業の中で議論をしたり他の生徒の発表を聞いたりするうちに、価値判断の根拠が人によって異なることに気付くと思います。しかし、そこで「価値判断は人それぞれ」で済ませてしまうとより良い社会は築けません。価値観の違いに気付いたうえで、相手の価値観の背景にある正義がわかれば、互いに歩み寄れる合意点を探り、他者と共生するための手がかりを見つけることができるでしょう。

3. 現代社会や世界の課題を考えるための見方を獲得し、改良していく方向性を探る
自分の価値判断の根拠が意識できると、現代社会の諸課題に対して意見をもてるようになっていきます。逆に、さまざまな社会問題に対する見方を獲得していく中で、自分の価値判断の根拠が見直されることもあります。思考実験という枠組みを使いながら自分軸の確立と社会に対する眼差しの獲得を行き来することで、思考の解像度が上がっていきます。そこから、社会をどのような方向に改良していくべきかという見通しも立っていくのです。

トロッコ問題のほかにも、公共の授業で活用できる思考実験は数多くあります。思考実験を活用した授業実践の蓄積が今後さらに進んでいくことを、現場の教員として大いに期待しています。

この度星海社より出版された『思考実験入門』も、ぜひ活用していただければ幸いです。

【参考図書】
スコット・ハーショヴィッツ(御立英史訳)『父が息子に語る 壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書』ダイヤモンド社
飲茶『正義の教室:善く生きるための哲学入門』ダイヤモンド社
児玉聡『COVID-19の倫理学:パンデミック以後の公衆衛生』ナカニシヤ出版
眞嶋俊造『正しい戦争はあるのか?:戦争倫理学入門』大隅書店

前田 圭介

東京大学教育学部卒・同大学院教育学研究科比較教育社会学コース修士課程修了。早稲田大学本庄高等学院・栄光学園中学高等学校・早稲田大学高等学院などで公民科講師として勤務し、現在はかえつ有明中学高等学校の社会科教諭を務める。「すべての学習に教養と哲学を」をコンセプトとした統合型学習塾「知窓学舎」にも携わっている。2024年5月に星海社より新著『思考実験入門』を出版。研究テーマ:教育と労働の接続、就職指導、定時制高校、公民科教育。

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